2017年9月2日土曜日

神楽坂のみちと交通を考える

 9/1(金)19:00より、神楽坂大学まちづくり住まいづくり塾で「神楽坂のみちと交通を考える」行いました。歩きやすいまち、みち、交通、都市計画はどうしたらよいか、検討しました。おもな意見(要旨)は以下のようでした。簡単ではない問題ですが、検討を続けたいと思います。

 神楽坂通りは、通過交通を排除して生活道路とすべき。歩車道の段差もできるだけ解消したい。
 歩車一体型で、車道部分を石畳的な仕上げにし、車が通りにくくなるようなしかけはニュータウンなどで事例がある。神楽坂通りでも可能性があるのではないか。
 子どもが道路で遊ぶようなことは、今ではほとんどなくなった。保護者から、子どもを守るためのガードレールをつけるよう、行政に要望が出る。水路のそばの柵(落ちないように)、公園のボール遊び禁止(近隣に迷惑)など、どんどん規制が多くなっている。
 神楽坂近くで、マンションの駐車場に空きがでて、料金が下がっている。現在35,000円であるが、近隣の相場を調べたら25,000円だった。マンションの収入減になるので、外部に貸すことを検討している。他のマンションでも駐車場の空きが少なくない。
 神楽坂は人間中心のまちとすべき。歩行者天国は、現在の時間帯や曜日を拡張しても良いのではないか。
 外苑東通りは、10年をはるかに超えて30年近く道路事業をやっており、一向に進んでいず、道路予定地は空き地のままである。かつては商店街があったがすっかりだめになってしまった。
 シェアード・スペースについては、丸の内の仲通はそのようなイメージである。ルールはないが、人が優先されており、人と車が共存している。
 ドイツでは中小都市でも個性があり、多くの都市で路面電車が走りコンパクトなまちになっており、市内では人と車が共存あるいは人が優先であると感じる。一方アウトバーンは高速移動のために特化している。
 神楽坂らしい人と車の融合モデルがつくれるのではないか。
 日本ではひとつ悪いことがあると、100の良いことがあってもNGとしてしまう。人間を信頼し、良い方向に持っていくべきではないか。
 神楽坂通りは、意外と車が人に優しい。歩行者が車道に出てくるのをわかっているドライバーが多いのでは。現在は人と車が融合しているほうだと思われ、それをもっと融合する方向に持っていければよい。大久保通りは筑土八幡交差点まで出来たが、人にも車にも使い勝手が悪い交差点ができ、飯田橋方面は以前よりも渋滞が多いように感じる。
 大久保通りはじめ都内の道路で交通量が減っている状態で、なぜ道路の拡幅が必要か?成熟時代のまちづくりをすべき。
 神楽坂通り沿道の住民にとっては、歩行者天国は不便。坂道を車椅子で上がるのはとても大変だ。歩行者天国ではなく、神楽坂では人と車が共存すべき。
 大久保通りは片側2車線とすべき。若松町あたりは結構混んでいる。
 そもそも神楽坂1-5丁目と6丁目はまちの成り立ちが違うので、そこを結びつける意味はない。
 大久保通り、坂上交差点の空地はさびしい。なんらか活用して、にぎわいを創出すべき。シェアード・スペースの考え方はおもしろい。
 大宮では、道路拡幅予定地の利活用に向けた社会実験を行う予定で、カフェなどの出店者を募集した。神楽坂でもそのようなことができないか。
 どんなみち空間にしたいのか、ビジョンを持つことが必要。
 神楽坂通りは歩行者通行量が多い。歩道の一部には自転車や看板が置かれ、歩きにくい状況になっている。


2017年8月4日金曜日

カーフリー神楽坂祭り

726日から29日までの4日間、第46回神楽坂祭りが行われました。最初の2日間はほおずき市、地元名店の露店市、NPO粋なまちづくり倶楽部による浴衣でコンシェルジェなどが行われ、後半2日間は阿波踊り大会です。以前から、阿波踊り大会のときは自動車通行止めとされましたが、今年から前半2日間も通行止めとなりました。露店は歩道と車道の境界部に設けられるのですが
、以前から歩道の人込みが大変なレベルで、特にメイン会場の毘沙門天前あたりは身動きがとりにくいほどの状態になり、祭りの主催者である商店会からは車両通行止めを警察に要請していたのですが、4日間連続ということに対して難色が示され実現しませんでした。しかしあまりに混雑して歩行者と自動車の接触事故などの危険があり、歩行者にもドライバーにも不適切な状態であったことから、ようやく実現しました。

 予想では、車道が歩行者に開放されるので、混雑は幾分緩和されるのではと思いましたが、実際は予想を大きく上回る人出で、毘沙門天前の歩道の状況は変わらず、車道も人であふれ、歩車道の境界にある縁石には多くの人たちが座っていました。その多くの人たちは露店などで購入した食べ物、飲み物を楽しんでいました。人は食べ物・飲み物を楽しめ座れそうな場所があれば、あまり快適ではない条件でも座ることを確認しました。これもパブリックライフですが、しかしあまりの混雑も考えもので、混み過ぎていて回避した人も相当いたようです。


 NPOの浴衣でまちあるきも、受付を設けた毘沙門天境内付近があまりの混雑のため、ゆっくりまち歩きを楽しむという雰囲気ではなく、お客さんはかえって少ない状況でした。車の通行止めは今年初めての試みで、露店の配置などは、車道と歩道の行き来をしやすくするなど、今後改善の余地があると考えられます。

神楽坂通り 歩道 毘沙門天前

神楽坂通り 毘沙門天近く 車道

歩車道の間の縁石には多くの人たちが座っていました



2017年5月21日日曜日

まちづくりの「物語」をつくる

まちづくりの「物語」をつくる
神楽坂大学講座 第176回神楽坂まちづくり住まいづくり塾
今、あらためて!神楽坂まちづくりシリーズ 第5

5/12(金)19-21時に行いました。語り手は中島直人さん(東京大学都市工学科准教授)
 です。

◆富士吉田市のまちなみと御師の家
Ÿ   鳥居のなかに富士山が見える。富士山のふもとのまち。参道の先に富士浅間神社の本家がある。この参道は世界文化遺産の構成資産となっており、鳥居から先は聖域となっている。
Ÿ   16世紀に計画的に出来た街であり、参道沿いにまち割りがされている。
Ÿ   浅間神社から先は登山道になっている。現在は登山はレジャーだが近世以前は信仰による登山だった。ここは、江戸時代から、登山の前に泊まるまちであった。江戸時代は富士講が集団で富士山にやってきて、その世話をする家が御師であり、最盛期には80件ほどあった。御師とは半ば神官でもあった。
Ÿ   御師の家は表通りからちょっとうらにある。なぜか?表通りから少し下がったところに、道に並行して流れる水路があり、それは禊の川である。そこを渡ると御師の家があり、奥へ奥へと誘う。
Ÿ   今は五合目まで車なので、このまちはスキップされてしまう。表通りからは御師の家は見えず、表通りの建物は新しく、経済成長期に出来たものである。
Ÿ   富士山は自然遺産ではなく文化遺産で登録された。御師の家には重文もある。吉田登山道は近世から同じで残っている。
Ÿ   住民に、「まちの何を誇りに思いますか?」と聞いたところ、「街全体が歴史の物語のなかにあること」という発言が、まちのデザインを考えるワークショップであり、感銘を受けた。まちが物語のなかにあり、紡がれていることが大切。
Ÿ   神楽坂でも「粋なまち神楽坂の遺伝子」という本があり、物語を伝える手段となっている。
Ÿ   地区計画やまちづくり協定は物語を刻み込んだ制度、物語がそこに表現されている。
Ÿ   まちづくりの文脈(遺伝子)を次世代に継承していくための「物語」にはどのような形がありえるか。

◆物語とストーリーと物語
Ÿ   「ストーリー」とは、「世界を時間と個別性のなかで理解するための仕組み」である
物語は、ストーリーの発現系である。人間は時間的前後関係のなかで世界を把握するという点で、ストーリーの動物である。そのストーリーを表現するフォーマット=物語に人間の脳は飛びつく。人間は物語る動物である。(出典 千野帽子 「ひとはなぜ物語を求めるのか」、ちくまプリマー新書、2017
Ÿ   語られないストーリーがたくさんあるはず。それをどうやって発掘し、表現し、共有するか。

◆根岸 この先階段ありの道
Ÿ   なんでもないような道に、この先階段ありの標識があった。車は入れるが、階段3段あり、車は入れない。これは、積極的に残している痕跡があった。そこはちょうど台東区と荒川区の区界であった。明治時代の地図で確かめたところ、そこには川があり、それが区界だった。川に下りていくところに階段があったのだった。そのように、いろいろな物語が見えてくる。
Ÿ   車を入れたくないという意思、いい意味での閉鎖性を失わないため、階段が残されたのではないか。今はマンホールが残るのみだが、歴史を見れば地形の差がわかり、川があり、そこが区界であった。そういうことがすべての場所にあるが、語られていない。

◆藤沢は、江戸時代の宿場町であっただけではない
Ÿ   旧東海道藤沢宿は、市によって街並み継承地区に指定されている。江戸時代のまちわりが残り、まちなみ伝承館も設けられた。しかし旧東海道は近世になってできた道であり、周囲にはそれ以前の道があった。縄文時代の遺跡がある砂丘などもある。藤沢には、宿場町だけではなくさまざまの歴史、道がある。そこで選択されるストーリーとされないものがある。複数の物語が輻輳する。

◆小さいおうち Virginia Lee Burton The Little House など 絵本による定点観測表現
Ÿ   まちづくりの「物語」の布石になる。ちいさいおうちを定点観測し、アーバニゼーションを批判したものと解される。定点観測した家の絵を並べるだけで物語になる。
Ÿ   The Changing Countryside , Changing Cityなども同様。横浜の「ある都市の歴史」は北沢猛先生によるもので、開港前から現代までの横浜都心部を同じ鳥瞰で見たもの。絵本による時系列表現である。
Ÿ   これらは誰に向けてのものか?専門家向けではなく市民向けであり、ストーリーを理解、共有すること、過去をしっかり理解することを目的としている。それにより、まちが語られだし、まちづくりのストーリーが生まれてくる。

◆津波の記憶と復興の意図の環境的継承
Ÿ   釜石には震災前から通っていた。山すそに張り巡らされた避難道路(津波記念道路)があり、これは釜石湊絵図にも描かれ、明治三陸津波の後に設けられた。眺望が良いので普段から市民の散歩道になっている。津波の時には縦(上)に逃げることが指示され、そこに逃げる場所があった。津波の恐ろしさと避難方向を示すため、避難道路に看板が設けられ、現在では観光ボランティアがここを紹介している。東日本大震災ではこの道で助かった人もいる。
Ÿ   ある避難案内図で、狭い民有地の階段が指示されている。そこを抜けていくと避難道路にいたるが、そこに佐々木家稲荷神社があり、そこは信仰の場所である。避難の道は信仰の道でもあった。3.11後、そこの家はなくなっていたが、外階段はあった。稲荷神社の近くに、三代前の人が立てた場所の由緒を示す看板があった。明治三陸津波から逃れた物語が書かれていた。碑や桜並木も復興の記念として残されている。
Ÿ   場所でわかることが大事、体で理解すること。避難の追体験ができる。記憶力豊かな環境の形成が復興におけるひとつの目標となる。

◆ニューヨークの取り組み
Ÿ   都市文化としてのまちづくりの「物語」がつくられながら、ニューヨークにおいてさまざまな公共空間の再編がされている。
Ÿ   NYの都市計画の歴史を、人物や事象で振り返ることができる。それはJane Jacobsから始まった。Janet Sadik-Khanらの取り組みにより、公共空間が大きく変わり始めた。
Ÿ   Robert MosesPower BrokerとしてJane Jacobsと対峙するかたちで語られるが、彼の業績も再評価されている。Mosesが主導したインフラがNYを支えている。The planetizen top 20 urban planning books of all timeのトップはJacobsのアメリカ大都市の死と生だが、Mosesについて書かれたThe power brokerも上位にある。MosesJacobsの違いは「公共善 public goods」と「共通善 common good」である。このふたりを再評価する書籍も最近出されている。Bob Dylan1961年、デビュー前にJacobsとともに、Mosesを批判する内容の詩を書いた。曲にはなっていない。
Ÿ   専門家だけが語るのではなく、いろいろな物語が掘り起こされる。A Marvelous Orderという、An opera about Robert Moses and Jane Jacobsも上演された。それらは、まちのイメージ、ビジュアルパレットとなっていく。JacobsMosesなど個人というよりもまちの物語である。都市づくりの物語がカルチャーとして蓄積され、多様な物語が尊重されることに意義がある。

【中島先生のまとめ】
今日はカルチャーの話が中心だったが、テクノロジーについてもあわせて考えていくことが必要。特に情報技術はまちの物語に触れる窓口になる。 
以上






2017年4月22日土曜日

「神楽坂とアジアの動態的保全」神楽坂まちづくり住まいづくり塾

4/7 神楽坂まちづくり住まいづくり塾
「今あらためて!神楽坂まちづくりシリーズ第5回」が開催されました。
「神楽坂とアジアの動態的保全」
講師:東京大学教授窪田亜矢さん
プレゼンテーション
■神楽坂での動態的保全の経緯
・神楽坂のまちづくりは凍結的に魅力を決め切らず、常に新しい方向を模索し、社会に「こんな取り組み方がある」という姿勢をみせてきた。具体的には保全しながら変化していく動態的保全が行われてきた。
・たとえば、景観が壊れる懸念から建設反対をしてきたマンションも建設された後には、受け入れ方策を検討し、その結果、新規居住者がまちづくりに参加していく流れがある。
■バンコクでの動態的保全事例
・1980年頃のまちづくりは開発による居住者移転が発生し、コミュニティ崩壊が伴うものであった。観光も視野に入れながら界隈の事業者が追い出されない保存・開発のプランニングを大学関係者と地元が一緒になって練り上げた。
・一つの例として、川沿いの市場周辺地区では、博物館建設や緑地整備の計画が立ち上がったが、火事の見回り等を行っていた住民組織と大学関係者が、丁寧な空間調査や意向把握を行った結果、行政のプランも市場を残した動態的保全の方向にシフトし、オリジナルな価値を残し、人々が住みながらインフラや動線を確保する整備計画が立案された。
・他の地区でも、住民が地域の歴史やコミュニティにポテンシャルを感じ始め、大学関係者が調査を行い、イベントを仕掛けるなどして、水場づくりや古建築の修繕、宗教施設の開放等が行われている。
【意見交換】
・アジア諸国の経済レベルは上がっており、歴史的地区を生かした動態的保全によるまちづくりが横並びで行われていけば、アジア全体という視点で捉えても多様性のある魅力が獲得されていくのではないか。
・動態的保全により良好な地域が形成されれば不動産価値が上昇し、住民の意向とは別に商業的な観点から改変されていくことにはならないか。
-住民で維持できないものも出始めている。難しい問題であるが住民が住んでいることがアジア大都市の賑わい地区においては根底の魅力を形成するものであり、住民主体であることを維持し続けることが重要。
・生活環境や宗教を保全することで異質な文化が隣接する状況が形成されている。互いのコミュニティ維持はどのようにおこなわれているのか。
-特に宗教に関しては、過干渉ではなく、むしろ無関心だったと理解している。それがお互いを尊重しようという機運が生まれたのが、先の事例だと思う。
-神楽坂では旧住民・新住民という構図があるが、7~8年前まではコミュニティは存在しなかったが、最近はNPOを通じてまちづくりに関わる人が増え始めている。
-建物的にも路地にオープンな店が増え始めており、違う文化が混在し始めている。
・バンコクでの動態的保全活動のきっかけは。また、最終的にどこに向かおうとしているのか
-きっかけはかつての開発によりコミュニティが崩壊するという痛い目をみたこと。最終的な方向性は一つではなく、たとえば経済的活性化を考えている人もいるだろうし、文化財的保存を考えている人もいるかもしれない。総じて今の状況を良しとしているのではないか。
・大きく変わっていこうとしている神楽坂に対抗するためには、まちの声を大きくしていく必要がある。改変の圧力に大きく負けてしまうと取り戻すことが不可能になる。「住民が参加すると保全型になる」という言葉がキーワード
-動態的保全はウォッチするだけでもすごく手がかかる。住民不在では開発か凍結型保全の2択になる。
・神楽坂では住民意識と民間企業(保全・開発)のバランスをどうとっているのか。
-前までは住民は街並みなどにあまり意識はなく、外部の人の方が意識していた。そういった店が増え「神楽坂はいいね」という声を聴いて住民も意識しだした。今はいいバランス。
・住宅地での動態的保全はどう考えていけばよいか。
-木造密集地域という側面もあり難しい。大規模な再開発的な整備には注意が必要。
・動態的保全するにも稼いでいかないと何もできない。経済活動的には開発・保全のバランスが必要。
・金沢では主計町など歴史的なまちで過疎的な状況が発生している。前市長による施策が良好であったため、まかせすぎた反動が今、起こっている。地域コミュニティ主体によるまちづくりが重要。



2017年4月10日月曜日

大久保通り拡幅に伴う店舗解体 神楽坂上交差点

大久保通り拡幅に関連し、神楽坂上交差点に面した数店舗の解体除却工事がほぼ終了しました。従前と比べると違いがよくわかります。また、これから解体が想定される建物もあり(時期は未定)、広い道路で神楽坂が分断されることが危惧されます。都市計画道路空間が広がることは諸事情よりやむを得ないとしても、自動車のためではなく、人のための空間の使い方が必要ではないでしょうか。

従前の状況。河合陶器店、山下漆器店、牛タン圭介があっ

店舗が解体され、空き地になろうとしている。街の中心の交差点に面して
無粋な空き地ができてしまう。

現状幅員18mに対し、拡幅後は30mに。広がる空間を自動車だけのために
使うことが本当に正しいのでしょうか?

2017年3月22日水曜日

第6回 神楽坂伝統的路地保全専門部会 開催されました

本日3/21(火)、第6回神楽坂伝統的路地保全専門部会が開かれました。この部会は神楽坂まちづくり興隆会のもとに平成23年に設立され、新宿区都市計画部景観・まちづくり課とともに、路地界隈の景観保全と防災について検討しているものです。本日の部会は約3年ぶりに開催されたもので、「三項道路道路指定(路地の幅員を2.7m以上とする)」、「街並み誘導型地区計画」、「建築基準法に基づく認定」の組み合わせによる方策を進めていく案の説明と質疑応答がなされました。基本的には案は了承され、これから個別に地権者の意向調査と合意形成が進められることになりました。



2017年2月22日水曜日

神楽坂の「住民」主体のまちづくりのこれから 記録

2017(平成29)年23日に行われた、
神楽坂まちづくり住まいづくり塾 「今あらためて!神楽坂まちづくりシリーズ」
神楽坂の「住民」主体のまちづくりのこれから
の 詳細記録です。

■日時:2017(平成29)年23日(金) 19:00-21:00
■場所:高齢者福祉施設神楽坂 1F 地域会議室

■開会:司会 NPO粋なまちづくり倶楽部 山下理事長
この塾は法人化の前から続けている。もともとこのような専門的まちづくり勉強会であったが、最近はよもやま話が多くなっていた。昨今神楽坂のまちに大きな動きがあり、今改めてまちづくりの専門的な勉強会を行うこととした。あまり杓子定規ではない、固くないシリーズとしていきたい。

プレゼンター:中島伸東京大学助教 
Ÿ   まちづくり、都市デザインを専門としており、街の現場から勉強を続けている。神楽坂には東大博士課程に在籍していた、2007年ごろから関わっている。
Ÿ   今日のテーマは、「神楽坂の「住民」主体のまちづくりのこれから」。住民とはなにか、いっしょに改めて考えたい。
Ÿ   神楽坂のまちづくりのテーマとは何だろうか。「粋なまちづくり」といわれるが、その意味は「変化を受け入れ、変わりながら守り続ける、すなわち「動態的都市保全」の取り組みといえるだろう。動きながら都市を保ち全うなカタチにしていくという意味である。
Ÿ   私は神楽坂以外のまちづくりにも取り組んでいるが、神楽坂で特徴的なのは、毎回のようにそもそもまちづくりとは何か、どのような経緯があるかという話になる。そういうことは他のまちではあまりない。過去や現在をベースにしながら次はどうするかという話をするのは大事なことである。今日の主題は「今、改めてこれから」だが、最初に神楽坂のまちづくりの経緯を振り返りたい。

【神楽坂まちづくりの経緯】
Ÿ   神楽坂とは、都心部の商業地でありながらかつての花街の歴史や文化を伝えるまちである。商業地だが住民も多い。都心の住商混在地におけるまちづくりの先進事例である。
Ÿ   1990年前後より、まちづくりの会が発足し、まちづくり憲章がつくられるなど、まちづくりが本格的に始まった。2000年ごろより超高層マンション建設をめぐっての住民運動が起こり、まちづくり活動が活性化した。その後住民主導による地区計画ができた。
Ÿ   神楽坂では多くの主体の関与していることが特徴。行政主導から地域主導へ。地域資源(文化など)を生かしたまちづくり活動が展開されている。他の都心の住商混在地における保全型まちづくりへの示唆に富む。
Ÿ   神楽坂では歴史と文化の継承が重視されている。空襲のため戦前のまちなみは残されていないが、敷地形状は継承され、それが沿道景観の基礎を作っている。2007年にテレビドラマ「拝啓父上様」が放映され、それを機として来訪者や新規出店が増加した。
Ÿ   神楽坂では、何を維持保全することで神楽坂らしさが維持されるのか、常に議論されている。「神楽坂らしさ」は、昔はあまり言われていなかったようだが、近年よく議論されるようになった。路地界隈だけではなく、表通りの雰囲気も合わせてのことである。「らしさ」の議論は、開発や更新によって失われるものとワンセットである。
Ÿ   ここ10年の変化は大きい。多様な主体が関わるようになっている。NPO粋なまちづくり倶楽部、まちづくりの会、株式会社粋まち、花柳界、行政、町会、まち飛びフェスタ委員会など多様な主体がある。
Ÿ   建物規模も変化している。新宿区は景観行政団体として高さ規制を導入しており、そのための景観計画基礎調査に東大が関わったのが、私が神楽坂に関わるきっかけである。それ以降も神楽坂ではいろいろな動きがあり、その経緯および東大デザイン研の実践をまとめたのが本日の資料である。そのときそのときでテーマが異なっている。
Ÿ   まちづくりの時期を区分すると、1980年代後半に歴史を生かしたまちづくりが始まり、97年にまちなみ環境整備事業を契機として住民が関与しはじめた。2000年に高層マンション紛争があり、このままではまちを守れないという意識からNPO粋なまちづくり倶楽部が立ち上がり、まちづくり活動が展開されはじめた。いろいろな提案が住民から行政に出されるようになった。さまざまな組織ができ、行事がはじまった。今ではさまざまな活動が町で起きており、活動も多様化している。
Ÿ   昭和20525日の大空襲で神楽坂は灰燼に帰した。雑学神楽坂によれば、戦後、「何より先に戻ってきたのは三味線の音」であった。物は変わるが人の活動、魂からまちが再生していく。

【神楽坂とはどういうまちか】
Ÿ   早い段階から「粋」という言葉がでてくる。飯田堀の再開発がきっかけとなり70-80年代から始まった。92年にまちづくり推進計画ができ、伝統と現代が織り交ざったまちづくりが始まった。94年にまちづくり憲章ができた。これはまちづくりの基本的な考えを示したものであり、今でも通じる。97年に神楽坂通り沿道1-5丁目地区まちづくり協定が憲章と協定の2段階構成となった。まちづくり協定はまちなみ環境整備事業の導入を目指してつくられたものである。まちづくりキーワード集 は97年に刊行され、まちがどのようにあるべきかあってほしいかを考えるものとして編集された。町のイメージやよいところを抽出しており、「ひとにやさしいまち」、「安心できるまち」、「多様性のあるまち」、「粋に未来を作るまち」という構成となっている。今見ても、これがベースとなって議論が深まったと思う。
Ÿ   99年に超高層マンション問題が起こり、住民が訴訟を起こしたが敗訴した。マンション反対運動に呼応したまちづくりが始まり、大学もこのときよりまちづくり支援を開始した。はじめに基本的調査を行い、神楽坂が江戸時代からどう変わったか、敷地割りの変遷を調べた。時代を追うごとに集約化、統合化が進んだことがわかった。マンション計画については代替案を3案作成したが、結果は当初案に近いものが建設された。その後、地区計画作成へという動きになり、そのための地元組織として興隆会ができた。それまでは商業者、町内会などがまちづくりの主体であったが、地区計画の合意組織として興隆会ができた意味は大きい。
Ÿ   以降、まちづくり活動がさまざまに拡大していく。空き店舗での公開ワークショップ、神楽坂地図カフェ、登録文化財調査、シンポジウム、まちとびフェスタ、伝統芸能イベントなどである。しかしその間にも路地内の再開発が進んだ。商業開発により地域景観の変化が進んだ。一方、神楽坂に惹かれて新しい人たちが入ってきて、それぞれの神楽坂を表現している。それにつれて、ますます神楽坂らしさの議論が多くなった。
Ÿ   2009-10年には粋なまちなみルール検討のワークショップが開かれ、粋なまちなみ規範がまとめられた。神楽坂通り沿道と路地界隈に分け、それぞれ7項目が挙げられている。地区計画は数字で表現するものだが、ここでは表現方法を工夫した。10年にはキーワード第2集が編集された。第1集以後それまでの活動の記録をまとめ、まちづくりの理念を未来につなげていくためにつくられた。まちのルールをどうやって定めていくかも議論された。10年後のまちへの提言集であり、第1集から比べると具体的な提案が多い。
Ÿ   粋なまちづくりとは動態的都市保全であり、変化を受け入れ、変わりながら守り続けることだと考えられる。多様な要素が新旧調和するということは、将来にわたってさまざまなものやことの密度が高まっているはずだが、豊かさを実感できているだろうか。課題はたくさんあるが、その様子や要素も多様である。

【住民とは誰か】
Ÿ   まちづくりに関わる住民とは誰か。多様な主体がある。ひとつのグループの中にも多様な人たちがいる。住民には新と旧がいる。新しいマンションができることは、従来の住民から見るとさびしく、望ましくないことである。新旧住民がどこかで知り合い、「はじめまして」と挨拶を交わし、「最近越してきました、あのマンションに住んでます」「ああ」となる。新旧住民のあつれきが感じられる挨拶の様子が想像される。移ってきた人は神楽坂の魅力を感じ、神楽坂が好きで引っ越してきたが、前から住んでいた人にとっては複雑である。どういう距離感でまちづくりが進むのか。
Ÿ   いわゆる移民第一世代は、可能性にあふれる人たちで、神楽坂の環境にほれて移り住んだ。旧住民、 老舗の移民にとっては、自分たちの環境はあたりまえのものとなっている。良い住環境なので地代が高い。意識が高い人たちはその価値観を受け入れ、それで進める。次の2代目、3代目になると相続問題が発生し、変わってしまうものもある。世代の新旧により価値観は変わる。
Ÿ   無関心か、能動的に動けるかにより、仲間への巻き込み方が変わる。神楽坂通りと路地側は空間のカタチが違うが、近年は路地にも新しい表通りのようなビルが出来始めた。奥の店は置き看板を表通り沿いに置き、通行客を引き込もうとするが、それによって歩きにくいことになる。何に引かれて人が神楽坂に来ているか。神楽坂には奥行きの深さがあり、表の店と路地の店のどっちが神楽坂の環境を使いながら商売しているか。今後、どうやって表と裏の人たちの関係性をつくっていきながら商売を続けられるか。
Ÿ   行政機構は個と全体、縦と横、国と区などに分かれており、縦割りが問題になっている。大久保通りの問題にしても、部局ごとに話をしても埒が開かない。では誰だったらできるのか。住民が、総合的にまちの問題として取り組むのであろう。一方まちづくりとプライバシーの問題がある。そっとしておいてほしい、隠微な世界、知れないことの魅力もある。まちづくりは、自分の土地でないところの土地について発言するという本質がある。プライバシーについてどう考えるか。調査郊外という言葉もあるが、どこまで踏み込めるか。
Ÿ   いかにして多様な価値観の人を巻き込めるかが大事である。議論すべきときと行動すべきときでは対象の考え方が異なる。少人数でアクション起こすべきときもある。
Ÿ   「牛込神楽坂8の字構想」によって、One神楽坂の実現を図りたい。神楽坂でも坂上、坂下商店街の連携が望ましい。8の字構想では大久保通りが真ん中になる。広域の多様な主体を巻き込んでひとつの牛込神楽坂にできるか。
Ÿ   今日は、「普段、神楽坂で見かける自分とは異なる立場のひととの関係性を改善し、まちが進展する粋な一言アクション」を考えてみたい。近所の人たちと仲良くなるにはどうしたらよいか。どうやって広げられるか、どのようなメッセージの出し方をすればよいか。そのようなことも含めて、ひとりずつ意見や感想を伺いたい。

■参加者の自己紹介、意見、感想
 参加:20
Ÿ   移民第一世代であり、すぐ隣の袋町に住んでいる。神楽坂には、10年くらい前から愛着を感じるようになった。
Ÿ   大学でまちづくりの勉強をしている。八王子中町のまちづくり支援をしている。神楽坂では中町でやっていない多くのことをやっていることがわかった。
Ÿ   赤城神社近くに住んでおり、サロンに参加している。
Ÿ   高田馬場在住。路地や情緒にあこがれがある。
Ÿ   神楽坂新住民であり東五軒町に2年前から住んでいる。将来独居老人になることを見越して引っ越してきた。予想以上にすみやすい。なぜ気持ちよいのか考えてみると、ヒューマンスケールであり、犬の散歩をしていて人に出会う。神楽坂通りはプロムナードのようであり、今の道幅を維持したい。商店が元気であり、そこで買い物できると気持ちよい。チェーン店ではないところから買いたい。
Ÿ   神楽坂旧人類であり、実家や店が大久保通り拡張区域に入っている。神楽坂は老人が住みやすい街で2位だそうだ。8の字計画は、故坂本二朗次郎さんもやりたいといっていた。大久保通りは着工せざるを得ない状況でどうするか。今あるものではなく新しいものも必要ではないか。神楽坂の賃料は日本橋より高いという話を聞いたが、そのように地価が高いとどうしても飲食になりやすい。神楽坂は京都にはかなわない面があり、単に京都の模倣は出来ない。
Ÿ   神楽坂1世代目。神楽坂通りの坂上と坂下の違いを感じる。牛込中央通りは、8の字よりも南の市谷よりはまだ商店が残っている。 
Ÿ   神楽坂には15年ほど出店し、2008年からはギャラリーフラスコも出店している。最初は意気込んで始めた。ギャラリーには全国から展示したい人が来る。神楽坂でやりたいという人が多い。1週間 フラスコで展示し、また来年という人も多い。近年神楽坂に対してやや冷めてきており、皆さんの意見を聞きたいと思う。
Ÿ   粋なまちづくり倶楽部理事、大田区在住、大阪出身。法政大学に1988年入学で、そのころは神楽坂にはあまり人がいなかった。都市計画の仕事をしており、一度神楽坂を離れて10年経って戻ってきたら大きく変わっていた。神楽坂はいろいろなことを自前でやるという感じが強い。
Ÿ   神楽坂には2000年から住んでおり、以来、まち飛び実行委員長などいろいろ関わっている。文化的なことが中心。最初はどうやったらまちの人と知り合いになれるか、新住民であり、まち飛びフェスタなどいろいろイベントやらなければならないので、初めてのところにいきまくり、あれこれ買ったり貢献するようにした。ここでしか買い物をしない雰囲気をつくった。そのうちに、先方からがお茶を出してくれたりするようになった。自分をある程度鼓舞する必要があり、そうでないとだれる。先日、スペイン関係の旅行者ライターに神楽坂を案内する機会があり、スペイン人が知らない東京として芸者さん、新内、楽山などの店にお連れした。風呂敷の包み方ひとつにしても、日本人はよくものを考えるなと感心された。風呂敷の包み方やお茶の入れ方など、ここには総合芸術としての美、暮しの中の美がある。矢来能楽堂では、300年使った古い能面と新しい能面をいっしょに使っていたが、ここでは能面は芸術品ではなく生活品であることがわかった。神楽坂のそういうよさを改めて感じた。
Ÿ   神楽坂で生まれ育った。生家の店は今年初めで閉店した。母は92歳で、ずっと店に出ていた。小さな店だがいろいろな人が来る。買ってくれない人も多い。まがいものはみんな嫌いで、本物を見て感動するが高いので買わない。しかし母もお客さんとちゃんと話ができることを楽しんでいた。まちは人でできている。このまちには、きちんと正面切ってよいものを探している人が多い。それを大事にしている老舗は、誇りを持ってやっていける。神楽坂では、長くやっている店はしっかりしている。本物好きであり本物に敏感だ。
Ÿ   神楽坂の老舗店主。最近マスメディアの取材が多い。平成9年、まちづくり協定の検討中に、前NPO理事長の寺田さんから、まちづくりにビジョンを提示すべきといわれ反発した。それは自分たちがやるべきことで人に押し付けられるものではないと考えていた。そのころ神楽坂は周回遅れのまちといわれ、閑古鳥鳴いていた 当時の商店会役員もがんばっていたのだが。平成3年に新宿区まちづくり推進地区となり、その後まちづくり憲章が出来たのだが、当時はまちづくりに関わっていなかった。日置さん平成12年にアインスタワー計画が持ち上がり、近くに兵庫横丁もありその計画は困るとして反対運動が起こった。当時元気だった立壁さんも心配されていた。日置弁護士が反対闘争の弁護団長的な役割を担ってくださったが、裁判では当時の判例に沿い完敗であった。その後地区計画へと進んでいく。そのころからやっと神楽坂が世間に認知されるようになった。まちの景観がこれからどうなるか 守るだけでなく新しく作ることが必要だろう。
Ÿ   牛込中央通り沿い30年住んでいる。以前は暗い夜道を歩いて帰ったが、近年はにぎわっている。この地域の商店街として神楽坂通り、牛込中央通り、外苑東通りがあったが、神楽坂はすごい。まちなみ規範つくるのに定性的感性が活かされていることは大事である。数字がすべてではない。一方、週刊ダイアモンドの記事で、勝ち組マンションとして価値が50%アップしたアインスタワーがトップクラスにランクされていた。そういう経済評価もある。神楽坂に引っ張られて牛込中央にも人が増えた。 
Ÿ   毘沙門天前の福屋さんの2階で都市計画デザイン事務所を営んでおり、そこに来て10年になる。ある意味、神楽坂で商売をしている。近年、地方に行き神楽坂から来たというと、おしゃれなまちですねと言われることが多くなった。神楽坂ブランドが地方まで浸透しつつあり、外から見るとうらやましい状況になっている。神楽坂のまちづくりに飽きたと感じたことはない。ずっと続けていることもある一方で、新しいこともあるからではないか。障がい者に対して、ハードだけではなく心のバリアフリーで対応しようというUDBBという活動も始めた。
Ÿ   好きなまちに住みたいと考え、勤め先に近く好きだった神楽坂に引っ越してきた。実際住んで楽しい。夜遅くでも安全。ボランティアにも参加し始めた。大久保通り沿いのマンションに住んでいるが、東京都が最近用地買収ということで説明に来た。拡張計画がわかっていて入ったが、戦後すぐの拡張計画を今更実施するというのを前向きに捉えられない。8の字計画は前向きに進められると良い。
Ÿ   多摩地区で育った。勤務先に飯田橋から歩くことがあるが、なかなかここまでは来る機会がなく、今日はハレの気分で上がってきた。
Ÿ   ずっと3丁目在住。長く住めばよいというものではなく、子どものころの遊び範囲は外堀の土手公園方面であった。神楽坂らしさについては、あまり議論されていない。今の賑わいは単にラッキーなだけ。らしさについて議論するしくみが全くない。まちづくり協定は環境整備事業のためであり、真の協定ではない。アインスタワー裁判に負けたのは提訴者が地権者でなかったためである。地区計画など法律で縛るとなると住民から離れる。そうではなく日常的な町式目的なものをつくり、主体は住民に預けるべきだ。大久保通り拡幅問題についても、NPOではなく、当事者である5丁目が中心となるべきだ。 
Ÿ   ちょうど、かぐらむら90号を出したところ。今日の中島さんの「神楽坂に愛着をもっていることを共有しているということを共有している」という言葉が刺激的だった。神楽坂の楽しみ方は多様化、メガからギガへと高密度化しており、単純に粋なまちでいいねではすまなくなった。ものすごく大きくなってしまったために、もはや粋という言葉では共有できない。20年前だったら粋なまちづくり倶楽部ということばがすっと入ったが、時間差が生じている。それが課題となっている。共有していると思っていたことが共有されていない。それは多様性と密度が上がったためである。15年間取材してきてそのように思う。

■まとめ
Ÿ   振り返らなければいけないことがたくさんある。これが不足ということもある。住民同士でわかりにくさ、距離間の違いなどいろいろなことが起こっている。これを打破するにはユニークさ、ユーモアなど、これまでと違うところからつなげることが必要だ。煮詰まったものがほかの人には食べにくい。自分なりの神楽坂、外から見た神楽坂、距離感の違い、単純な観光まちづくりではなく外からみる鏡など、さまざまな視点を取り入れることが必要だろう。


以上

2017年2月18日土曜日

「神楽坂の「住民」主体のまちづくりのこれから」を考える

2017/2/3(金)19時より、NPO粋なまちづくり倶楽部の神楽坂まちづくり住まいづくり塾で「神楽坂の「住民」主体のまちづくりのこれから」を行いました。

神楽坂には、まちの魅力に惹きつけられ、「神楽坂ファン」とも呼べる人たちが多くやってきます。皆さん、神楽坂のことが好きで訪れ、また好きすぎて居住地として選択する人もいます。そんな魅力的な神楽坂はこれまでにどんな人たちによって、どうやってまちが磨かれてきたのか。また、これからの課題は何なのか。

今回のまちづくりシリーズではそれを改めて考える良いきっかけになりました。

まちづくりは熟考に裏付けされた機動性の高い行動力と、活動をより多くの人を巻き込み共感してもらうためのデザイン力が重要です。

これらのまちづくり力を磨くためには、前向きに批判してくれる人との議論のぶつかりを欠かせません。神楽坂は、これまでもまちづくり憲章から地区計画とまちの魅力を活かし守っていくために様々な取り組みを行ってきました。まち飛びフェスタや神楽坂まつり等も、狭義の神楽坂を超えてまちをつなぎ、地域内外の多世代の人たちに愛されるイベントになっています。

大久保通りの拡幅事業など今後もまちの大きな変化が想定されている中で、まちの伝統と文化を伝えながら、変わらずに変わり続けるまちとして進んでいくのだと改めて思います。
中島伸 (東京大学)

2017年1月31日火曜日

神楽坂の路地景観を守ると云うこと

兵庫横丁の「和可菜」が旅館としての営業を終え、地権者が替わる可能性も否定出来ません。
新宿区は「神楽坂3,4,5丁目地区・地区計画」をH19に定め、H23には一部改訂をして施行しています。

この地区計画で兵庫横丁の伝統的な街並み景観がどこまで守れるかが、いま試されています。
神楽坂まちづくり興隆会では、H23に「神楽坂伝統的路地保全地区・地区計画検討委員会」を設置し地元住民と区が一緒になって検討を重ねて、6年の歳月が経過しましたが、未だ同地区計画は施行されておりません。

その様な状況の中で、兵庫横丁の街並み景観を守るためには、「住民主体のまちづくり」の考え方をアピールし、多くの住民の方々また支援者の方々を巻き込み、英知を結集したムーブメントにして行く必要があると考えています。

「和可菜」は神楽坂の伝統的な街並み景観の象徴の一つです。
その大切な街並み景観が棄損される事の無い様に、関係者に対し、また行政等に対して、4半世紀に亘る「神楽坂のまちづくりの文脈」に沿って、土地利用が為される様に活動して行く事が大切になって行くと考えております。

神楽坂の街並みは、神楽坂の未来に継承すべき財産(寶)は、神楽坂の住民が主体となって守って行くと云う方向性が、「これからの神楽坂のまちづくり」の一丁目一番地であって欲しいと願います。

そのためのムーブメントを "Save the Kagurazaka" でも展開して行きたいと考えております。
ご支援をお願い致します。
                    石井要吉(助六店主)





2017年1月19日木曜日

神楽坂を読み解く! ワークショップ記録

1月13日に行われた、「神楽坂を読み解く!」ワークショップの成果を報告します。今回をスタートとして、神楽坂まちづくりシリーズを続けていきます。次回は2/3(金)、場所は「高齢者福祉施設神楽坂」です。


171回 神楽坂まちづくりすまいづくり塾
今、あらためて!神楽坂まちづくりシリーズ 第1回
神楽坂を読み解く!
【進行・プレゼンター】NPO粋なまちづくり倶楽部副理事長 鈴木俊治

■日時:2017(H29)年1月13日(金) 19:00-21:00
■場所:高齢者福祉施設神楽坂 地域会議室
■参加者 21

◆今、あらためて!神楽坂まちづくりシリーズ について   

【プログラム】
1. イントロダクション
 神楽坂固有の情景~次世代に残したいもの:
 まちの様々な情景を、写真を投影しながら見てみます。

2. 読み解きの手法:パタン・ランゲージとは
   パタン・ランゲージの概要と事例について説明。

3. パタン・ランゲージを創って、神楽坂を読み解こう(ミニワークショップ)
(1)つくり方の説明                                                                
(2)まず、自分でつくってみる~各自、カードに神楽坂の特徴やキーワードを書きだします。    
(3)ならべて、つなげる~下記の3班に分かれ、出されたキーワードを用いながら「パタン」を編集してみます。
(4)つなげて、見えてくること

【パタン・ランゲージをつくるポイント】
Ÿ・神楽坂の「特徴」、「本質」と思われることを書く。自分の主観で良い
 今こうなっておりこれが大切、将来ともにこうあってほしい、ということを具体的に書く。
・ 物的状況(地形、天気、道、建物、塀、緑、歩いて見える景色、路面、光、壁、窓、玄関前、入口 等)と人々の行動(買い物をしている、笑顔、歩いている、談笑、イベントで盛り上がっている、音楽 等)の両方の視点から書く。基本は付箋1枚にひとつのことを書く。
・ まずは難しく考えずに、単純なこと、当たり前のこと、思い浮かんだことをどんどん書く。

次世代に残したい、記憶に残る「良いこと」を、想像を膨らませて書く。

【ワークショップの班区分(パタンランゲージの大きな構成)】
1.都市・地域 東京、山手線内にある神楽坂について。  神楽坂とはこんな街)
2.表通りにおける建物、道(路地)と建物や工作物等の関係 (こんな風になっている、これは良い) 表通りとは、神楽坂通り、本多横丁、仲通り、軽子坂などを指す。工作物等とは、塀、垣、入口前の設え、石垣、緑、看板、照明、座る場所・設備 等を指す
3.路地界隈における建物、道(路地)と建物や工作物等の関係(こんな風になっている、これは良い)


【ワークショップの成果】
ワークショップの成果を以下に整理しました。班毎にまとめ方が異なっていますが、当日の成果をできるだけそのまま表現しています。これをもとに、神楽坂のひとつのパタンランゲージをつくり、まちの理解と価値の共有につなげて行きたいと思います。

★手順
  各自が神楽坂のキーワード、特徴などを付箋紙に書き出し、それを「都市」、「表通り」、「路地界隈」の3つに分類して出し合う。
  上記の3班に別れ、出されたキーワードを使いながら(足しても良い)、神楽坂の「パタン(良い、残したい特徴)」づくりを試みた。

★各班の成果(発表の要旨)
■都市
(キーワード)
  粋なまち(最上位のコンセプト)
  歴史的に新旧が調和している
  景観、特に坂の景観が特徴
  街並みが多様
  歩いていて楽しい
  伝統芸能がある
  花街を中心としたまち
  飲食店が多い
  コミュニティが濃い
  まちのなかで噂が早い

(編集してみると)
  まず、神楽坂は粋なまち
  その根拠は?
Ø  歴史が調和している。過去の歴史が消えるのではなく、そのうえに新しい歴史が積み重なったまち
Ø  江戸時代からの地形や地割がのこり、坂道がある。その景観が引き継がれている。
Ø  岡場所から花街が生まれ、これが核となって文学者らが集まり、芸能文化が発展した。中心は花街。
  花街や地形から生まれた文化を踏襲した店や、昔からのにぎわいを受けた店が多い。そういう店に来たい人たちが集まるまち。
  その外側にこのまちが好きで、このまちで何かしたいという人が集まったコミュニティができている。

■表通り(神楽坂通り、本多横丁など)
  「和」。歴史や芸能、地形が表通りにもよく現れる。和服、伝統芸能、習い事、人間国宝などのキーワードがある。
  洋だけでなく、和の店も多い。和服で働く、和服を着てきたいまち。
  「人」。地形を踏襲したコミュニティがある。
  「狭い道」。一方通行であり狭く、きつい。しかしそのおかげで通りの反対側の人が見え、声が聞こえる。そこで出会いが生まれる。
  「多様性」。多様な食があり、観光客、老若男女が混ざり合う。
  「品格」。伝統や歴史に関係し、夜の灯りは暗めになっている。パリのイメージ。品格のある街。大人の町であり、客引きや柄が悪い人、泥酔者が少ない。
  「イベント」。神楽坂祭り、ほおずき市、露店等イベントを表通りで実施している、みちが利用されている。
  「景観」。坂にケヤキ並木がありその眺望が表通りの特徴のひとつ。また、坂なのでケヤキの間から空が抜けて見える。
  「歴史」。まちのさまざまなスポットで、歴史が感じられる。そこから香りが感じられ。すてきなところが多い(楽山のまえなど)。
  「建物」。間口が狭い建物が並び、用途が混在している。
  「看板」。これについては矛盾する意見があり、店からはみ出る看板は汚いか、それとも遠慮がちでよいか。その境目があるまち。
  「出会い」。歩いているといろいろな人に出会い、そこで立ち話が多い。時間がゆっくり流れているまち。なぜか?みちが狭く、車はあっても速度がゆっくりなので人の速度と違和感が無い。車で来ると不便なまち。

■路地界隈
(キーワード)
  石畳、黒塀
  狭さ
  段差、曲がりくねる 先が見通せない。それがわくわく期待感になる。
  小さな緑が目につく
  三味線の音
  暗がりと灯り
  それぞれの路地に名前が付いている
  路地に面して商店がでており、新旧、和洋が混在している
  着物姿が似合う
  ネコがチョロチョロしても似合う
  形容詞で拾うと、楽しい、心地よい、わくわく等がいろいろなところに登場

(文章化すると)
  神楽坂の路地は を主語として
Ø  歴史を感じさせる空間である
Ø  石畳と黒塀が基本になっている
Ø  狭いから気持ちよい
Ø  階段と曲がった道を基本構成とする
Ø  三味線の音が聞こえる
Ø  暗がりと灯りが魅力
Ø  落ち着いたつくりの店が並ぶ
Ø  店は新旧和洋が混ざる
Ø  着物姿が似合う
Ø  ネコが似合う
Ø  外部の人たちにも勧めたい

  路地は個人所有地なので外部から触れてはいけない。それが神楽坂の淫靡な魅力をつくる。みんなが触らない世界であってほしい。

  路地で先が見通せないというのはいい意味で全貌が見えない。それが人の好奇心 探究心をくすぐるのではないか。